お酒の神様・松尾大社
平成19年9月
京都のメインストリート・四条通。
東の「どんつき」(突き当たりの京都弁)は祇園さん(八坂神社)です。
そして西の「どんつき」はここ・松尾大社です。ここは、京都最古の神社。
元々、後ろの松尾山の山霊を頂上付近に祀って、
この辺りの守護神としたのがはじまりだそうです。
その後この一帯を治めた秦氏が松尾の神を一族の総氏神として仰ぎ、
この一帯の開拓に従事しました。
そして、大宝元年(701)秦氏によって現在の地に本殿が造営され、
山頂の山霊をを移し祀ったのです。
また酒の神といわれる謂れは、酒造技術を秦氏が伝えたことから
室町期より「日本第一酒造神」と信仰されるようになりました。

四条通の西の「どんつき」。桂川にかかる「松尾橋」をわたるとまず大きな鳥居があります。 ここからが、参道です。鳥居にかかっているのは「脇勧請」という、榊の枝を束ねたものです。これは、鳥居の原始系らしいです。榊の束は「十二(閏年は十三)」かかっており。農作物の出来具合を占った太古の風習だそうです。しかし詳しい資料が残っておらず、どのようにして占っていたのかは今はわからないそうです。
鳥居の次の楼門です。この楼門は江戸時代初期のもの。左右の、随神のところに茶色いものがついているのがみえますか? 左の続き。楼門の随神の周囲の金網に、たくさんの杓子がさしてあります。これは「願い事を記して掲げておけば救われる」と言う信仰で、祈願杓子とも言われてます。
お酒の神様ですから、全国の酒造から樽が奉納されています。実はこの建物。元々能舞台だったのです。
京都観世会館の会報に片山慶次郎先生が「洛中のお宮さんの舞台。松尾大社にあった能舞台」をご執筆され読ませていただいたのですが「昭和25年のジューン台風で、檜の大木が能舞台に倒れ舞台の大半を壊してしまったそうです。その後残った一部を移築し奉納された酒樽を並べる建物になりました。観世会館の会報に掲載された酒樽をならべてある写真は、橋掛かりもある能舞台の形をしていました。現在は、さらに立て直されて、能舞台の形はなくなりました。ただ、酒樽の前の欄干。これは、橋掛かりの欄干が再利用されています。唯一残る、能舞台の遺構です。
さてさて、ここが本殿。大宝元年、秦氏の「秦忌寸都理(はたのいみきとり)」が勅命を奉じて創建。その後、皇室や幕府の手で改築され、現在のものは室町期の建造です。
この本殿、「松尾造」という建て方だそうです。
宝物館がる松風苑のお庭です。向こうに見える山が、松尾山。 ここが、松尾山への入口。許可がないと入れませんし、入山するにはお払いを受けなければいけません。
この山の渓谷の北にある谷が大杉谷といわれ、
その頂上近くに巨大な岩石があります。
これが古代の磐座(いわくら)で、本殿が出来る前まで松尾社の神を祀っていた所です。
裏の渓流を御手洗川といい、涸れることのない霊亀の滝がかかっています。霊亀とは・・・。松尾大社のHPによると「元正天皇の和銅7年8月、この谷より『首に三つの星をいただき、背に七星を負い、前足に離の卦を顕わし、後足に一支あり尾に緑毛・金色毛の雑った長さ八寸の亀』が現れ、左京の人が神主と共に朝廷に参上したところ、嘉瑞なりとして霊亀と改元せられ、亀は再び元々の谷に放たれたと言う言われがあります」だそうです。 滝の近くにある亀の井という神泉。酒造家は、この水を酒の元水として造り水に混和して用いるそです。
また延命長寿、よみがえりの水としても有名です。
もちろん、飲んできました。
境内には、いろんな造酒業の方から奉納された
物が多いです。まず手水鉢。
そして灯篭も。

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