「義 経」 の ペ ー ジC
義経のページCの内容・堀川夜討〜衣川合戦まで
  正     尊 頼朝の刺客・土佐坊正尊が義経の堀川館を夜襲するお話し
  船  弁  慶 四国へ向けて出航した義経に、西国で滅んだ平家一門の怨霊が襲い掛かる
  忠     信 義経の身代わりとなり義経の逃避行を助けた佐藤忠信のお話
  吉  野  静  義経を追う吉野の僧兵引き付ける為に、静が法楽の舞を舞う
  安     宅 義経追捕の為に建てられた「安宅関」。弁慶と富樫の壮絶な、やりとりの数々
  摂     待 奥州へ落ちる途中に、あった山伏接待の高札。その家の住人とは・・・
  錦     戸   鎌倉からの圧力に義経処遇を悩む、藤原三兄弟のお話
  大 仏 供 養 平家の残党・悪七兵衛景清が、頼朝暗殺を企てる
  景     清 頼朝暗殺を諦め、日向に流された景清の有様は・・・

    「正 尊」
頼朝の刺客・土佐坊正尊が義経の堀川館を夜襲するお話し
義経・静御前・江田源三・熊井太郎・武蔵坊弁慶が登場します。ここは義経の堀川館。義経は頼朝と不和になり、京に住んでいました。そんなある日、鎌倉から土佐坊正尊が都へ上ってきました。きっと自分を討ちに来たに違いないと思う義経は、土佐坊を連れてくるように弁慶を土佐坊の宿所に遣わします。土佐坊は、長旅の疲れがあるので又後日と義経の所に行くのを拒みますが弁慶は無理やり土佐坊を連れてきます。さて義経に面会した土佐坊。自分を討ちに来たのであろうと詰め寄る義経に、土佐坊は熊野参詣の為に都へ来たのだとシラをきります。しかし尚も問い詰められ、困った土佐坊は苦し紛れに起請文を書いて読み上げ自分の心に嘘偽りはない事を誓います。もとより信じていない義経でしたが、酒宴を開き、静御前に舞を舞わせ土佐坊をもてなします。そして土佐坊は宿所へ帰って行きます。その夜弁慶は、土佐坊の宿所へ偵察を送ります。そして土佐坊が夜討の用意をしている事を聞き、義経と共に武装をして土佐坊がやって来るのを待ちます。そして土佐坊が朗等を率いてやってきます。弁慶に江田源三や熊井太郎の奮戦で、土佐坊の郎党はことごとく討たれ、土佐坊も弁慶に生け捕られてしまいます。 現在物の劇的な作品です。舞台上で、所狭しと斬り合う義経側と、土佐坊側の人間。舞台上での宙返りや仏倒れなどの数々は圧巻。土佐坊の読む「起請文」は、以前に書きましたが「木曾の願書」に「安宅の勧進帳」と共に「三読物」と呼ばれる難曲。観世流では、シテの土佐坊が起請文を読みますが、流儀によっては弁慶がシテで弁慶が読む場合もあります。
    「船弁慶」
四国へ向けて出航した義経に、西国で滅んだ平家一門の怨霊が襲い掛かる
義経が頼朝の疑いを晴らすのに一先ず都を落ちようとし、摂津国尼崎大物浦へやってきます。弁慶は静御前がついてくるのを、この様な時に一緒に連れて行くのはふさわしくないと義経を諌め、ここから都へ帰る様に静に言います。静は弁慶の一存と思い義経に会いに行きますが、義経からも「都へ帰りなさい」と言われショックを受けます。別離の酒宴が開かれ、静は泣きながら舞を舞い、そして都へ帰って行きます。そして出航の時。天候が少し悪いから出航を延期しようと言う義経に、弁慶はこれは静に名残を惜しむ気持ちだと思い、無理やり出航させます。海上では、とてもいい天気であったのに俄かに風が変わり大嵐になります。するとそこへ、西海で滅んだ平家一門の亡霊が現れます。中でも平知盛の亡霊は義経を海に沈めようと襲いかかってきます。弁慶は数珠を揉み必死で祈ると、終に怨霊の力は弱り、引き潮と共に跡形も無く消えて行きます。 義経と静の別離は、吉野での話し。実際義経は、大物浦から出航しますが静は同行しています。この曲の前半のお話は、作者の創作です。
    「忠 信」
義経の身代わりとなり義経の逃避行を助けた佐藤忠信のお話
吉野山に潜んでいた義経一行ですが、吉野の衆徒が心変わりをし今夜にも義経を討とうとしている事を知った伊勢三郎は義経にその事を告げます。その事を聞いた、義経は忠信に防ぎ矢をさせてその間に山を降りようと言い、伊勢三郎を使いにだし忠信を呼びます。そして忠信に「防ぎ矢をし、その後自分の後を追っかけて来るよう」にと告げます。そして義経は、山を落ちて行きました。夜になり、衆徒が攻めてきました。忠信は高櫓に上がり敵を射殺し、後ろの谷に逃げ落ちます。衆徒は、逃すまじと入り乱れます。その隙に忠信は忍んで落ちて行きます。しかし、途中見つかり襲われますがその敵を見事に切り倒し、都への道を急ぐのでした。 忠信は、最期に「真の義経と思わせる為に今日ばかりは清和天皇の名を名乗らせて下さいと頼み、義経から「緋縅の鎧」と「太刀」を賜ります。共に義経愛用の物です。忠信はそれを着し奮戦します。都へ戻った忠信は、潜伏している先で襲われ自刃し最期を迎えます。
    「吉野静」
義経を追う吉野の僧兵引き付ける為に、静が法楽の舞を舞う
吉野山に潜んでいた義経一行ですが、吉野の衆徒が心変わりをし今夜にも義経を討とうとしている事を知り、すぐにでも山を降りなければならなかった。敵を引き付ける為に、佐藤忠信と静が色々な策をします。忠信は、都道者に扮し、衆徒が義経を討とうと詮議している席に紛れ込みます。その席で忠信は「頼朝と義経は仲直りされたそうだ」とか、たった十二人で落ちる義経一行を襲おうと言う衆徒には「義経の家来は一騎當千だから」と脅かしたりします。するとそこへ静御前が舞姿で現れ、舞いながら「頼朝も義経の武勲を認めるだろうから討つ必要はない」とか義経の家来の武勇を語り、長時間舞い続けます。衆徒はその舞姿に見惚れ、また静の話で義経に恐れ結局だれも討ってに向かわず義経は難なく吉野山を下り、静も都へ帰るのでした。 この能も作者の創作で出来ています。下の「忠信」の話は、平家物語などにありますが、この話しはどこにもありません。
    「安  宅」
義経追捕の為に建てられた「安宅関」。弁慶と富樫の壮絶な、やりとりの数々
頼朝と不和になった義経は、主従十二人の作り山伏となって、奥州へ向かうべく北陸道を進み安宅に着きました。そして義経追捕の為に作られたと思われる関所に差し掛かります。ひとまず如何して関所を抜けるかの談合をし、義経は強力となってみんなの後から付いていく方法をとる事となります。さて関所に差し掛かると関守・富樫某に「義経の作り山伏であろう」と一行を怪しみ止めます。弁慶は「自分達は、南都東大寺建立の為の勧進山伏である」と言い、山伏の尊厳を説いたりして富樫の疑いを晴らそうとします。しかし疑う富樫は「東大寺建立の為ならば、その旨の勧進帳があるはずであろう」と弁慶に問います。問い詰められた弁慶は笈の中にあった巻物を勧進帳と偽り読み上げます。弁慶の勢いに富樫は通る事を許しますが、強力だけは義経に似ているからと通しません。それを見た弁慶は「この強力め、判官殿に似ているなどと言われて思い出になっただろう。しかし、今日は日がある内に、能登国まで行こうと思っていたのに貴様のせいで行けないではないか!憎い奴め!」と言い金剛杖で義経を散々にぶちのめし、そのどさくさに紛れ義経を通します。尚も「通さない!」と言う富樫には「笈を持つ強力に目を懸けるとは、さてはお前は盗人だな!」と富樫に怒鳴りつけ、義経主従も刀をもち富樫にかかって行きます。勢いに押された富樫はあやまり、一行を通します。さて一行は関から遠ざかり一休みをします。弁慶は、義経を打ちのめした事を謝ります。義経は「こんな絶体絶命の折のあの機転は弁慶ではなく、八幡様のご加護があったからこそだ」そう思えばありがたい事だと弁慶に言い許します。さて、そんな一行の所へ富樫が先の非礼を詫びる為、地酒をもって尋ねてきます。弁慶は皆に油断はするなよと、諌め一行は酒宴を始めます。また弁慶は、延年の舞を舞い酒宴に花を添え、隙を見て富樫、暇を言い一行は虎の尾を踏み毒蛇の口から逃れた思いで、陸奥国へと下って行ったのです。 義経の逃避行で一番有名な話でしょう。歌舞伎の勧進帳は富樫の人情物的な部分がありますが、能の「安宅」は弁慶の剛の部分が前面に出ている曲です。三間四方の舞台に十二人の山伏が出てくると、とっても迫力があります。舞台が関所になったり、義経一行の休みの場になったり、小さい舞台の中だけでの舞台変換も見事です。弁慶の読み上げる勧進帳も迫力がありますが、特に山伏一行が富樫に詰め寄る場面などは、とても圧巻です。
    「摂  待」
奥州へ落ちる途中に、あった山伏接待の高札。その家の住人とは・・・。
奥州へ落ちる途中の作り山伏姿の義経主従十二人。途中、「佐藤館に於いて、山伏摂待」の高札を見つけます。佐藤館と言えば、屋島の合戦で討たれた佐藤継信・吉野で別れ都で討たれた佐藤忠信兄弟の家。義経一行は、なんにも知らない態で立ち寄ります。佐藤館には、継信の遺子・鶴若と佐藤兄弟の母が住んでいました。兄弟の母と・鶴若はその一行を義経一行だと思い歓迎します。そして自分の二人の子を失った事を嘆き悲しみ「せめて主君義経様を教えて私を喜ばせて下さい」と山伏に頼みます。弁慶は、自分達は義経主従ではないと言い、そして「もしそう思うなら、義経の家来の名前を言ってみなさい」と母に言います。すると母と鶴若は、義経以下全員の名前を差し当てたので、終に隠しきれなくなり本当は義経一行である事を明かします。そして弁慶は屋島の合戦での「継信の死」そして「忠信が兄の敵を討った事」を話して聞かせます。義経も継信が最期に「母と子が心配」と言ったこと、そして自分に忠を尽くしてくれた兄弟の子孫に命の恩を報じなければいけないのに、自分がこんな身になってしまい名乗る事も出来なかったのだと嘆き話します。母は悲しみの中にも喜び、酒を勧め、鶴若も酌に立ちます。程なく夜も明け、一行が出かけようとすると、鶴若が自分もお供させて欲しいと頼みます。弁慶はそのけな気な鶴若の姿に涙を流し「明日迎えに来るから、今日は用意をして待っていなさい」と言い鶴若を残し、再び奥州へ旅立つのでした。 佐藤館に立ち寄ったと言う話は残ってはいません。ただ、義経が佐藤館に色々使いを送った事はあるようです。
    「錦  戸」
鎌倉からの圧力に義経処遇を悩む、藤原三兄弟のお話
頼朝と不和になった義経は、奥州に落ち延び藤原秀衡の世話になっていました。ところがその秀衡が亡くなり秀衡は「義経を守るように」と遺言を残します。秀衡の死後鎌倉から圧力がかかり、奥州は義経の処遇で揉めます。長男・錦戸太郎は次男・泰衡と共に、頼朝の命に従って義経を討とうと企て、三男・泉三郎に同意を求めるために泉三郎のもとを訪ねます。ところが三郎は、父の遺言を固く守ると言い、兄の言う事に応じません。口論の末、終に錦戸は弟と兄弟の縁を切って帰ります。その後三郎が妻にこの事を話していると、早くも錦戸と泰衡が攻めてくるという知らせが届きます。それを聞いた泉の妻は、夫の最後を潔いものにする為自害します。その亡骸に取りつき嘆く泉のもとに泰衡と錦戸が討ち入ってきます。泉も力戦をしますが、やがて持佛堂に入り腹を切りますが、床から転び落ちるところを捕えられてしまいます。 三郎の妻は、夫の死後出家したともあります。
   「大仏供養」
平家の残党・悪七兵衛景清が、頼朝暗殺を企てる。
平家没落後、悪七兵衛景清は都に住んでいました。そんなある日、奈良で大仏供養があると聞き自分も奈良に住む母に会おうと奈良に赴きます。母をたずねると母は景清を喜んで迎え入れます。そして巷で噂の「景清が頼朝の命を狙っている」と言うのは本当かと聞きます。景清はその決心を包み隠さず母に打ち明けます。そして景清は平家の武将の中で最も重んじられていたのに、平家滅亡後は隠れ忍びながらの暮らしを歎き悲しみます。やがて夜も開け、母子は涙ながらに別れます。さて、源氏の大将源頼朝は大仏供養の庭に家来を大勢連れてやってきます。頼朝の命を狙う景清は、宮人の姿となって頼朝に近づこうとします。しかし頼朝の家来に見つかってしまい、どうしようもできなくなった景清は銘刀あざ丸を抜き、斬りかかって行きますが、暗殺は終に果たせずまた次の機会を狙おうと茂みに消え去ります。 史実に建久6年に頼朝が大仏供養を行ったと残っています。しかし景清の暗殺の事は残っていません。
    「景  清」
頼朝暗殺を諦め、日向に流された景清の有様は・・・。
平家没落後、日向国宮崎に流された悪七兵衛景清。景清の娘・人丸は父に会おうと、従者を連れて宮崎へ下ります。宮崎に着いたものの父が何処にいるかはわからない。人丸と従者は、藁屋に住んでいる盲目の乞食に景清の事を訊ねます。乞食は「そういう人の事は聞いた事はあるが、盲目ゆえ見る事が出来ないのでよく解らない。他所で聞いてみてくれ」と答えます。声を聞き、自分の娘と解った景清でしたが、今の有様を恥て名乗ることが出来なかったのです。人丸と従者は次に里人に景清の行方を尋ねます。すると里人は「ここに来る途中の藁屋に盲目の乞食がいたでしょう。あれが景清ですよ」と答えます。すると人丸が突然泣き出すので里人は不思議に思い従者に訳を訊ね、人丸が景清の子という事を知ります。里人は現在の景清の様子を語り、また父に会いたがっている人丸を不憫に思い「景清が名乗らなかったのは今の姿を恥じたからだろうから自分が行って対面させてあげましょう」と人丸を連れて景清の所に行きます。さて人丸と対面した景清は、子の為を思い今の恥ずかしい自分の事を隠そうとした心中を語ります。そして人丸の所望により、屋島での自分の武勇伝を思い出し語って聞かせます。時も過ぎ、話し終えた景清は人丸に自分の亡き跡の回向を頼んで故郷へと帰らせるのでした。 頼朝を討てなかった景清は、建久6年に頼朝に降ります。そして、もう二度と命は狙わないと自ら自分の目を突き盲目となったのです。

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