「義 経」 の ペ ー ジB
義経のページBの内容・一の谷の合戦〜壇ノ浦の合戦まで
  敦   盛 一の谷で熊谷直実に討たれた16歳の若き武将・平敦盛のお話
  経   正 一の谷で討たれた敦盛の兄、琵琶の名手でもあった平経正のお話
 生 田 敦 盛  敦盛に遺児がいたという設定のお話
  忠   度 箙に短冊を付け戦に行った歌人平忠度のお話
 俊 成 忠 度 歌人忠度のこの世に残した唯一の心残りとは
  知   章 父・知盛を助けに入り討ち死にした知章のお話
    箙 箙に白梅を差し笠印として戦った梶原源太景季のお話
  千   手 一の谷で生け捕りにされ鎌倉に送られた重衡と千手の前との淡く切ない恋のお話
  通   盛 3年越しの恋を実らせ、とっても愛妻家であった三位卿通盛の話
  藤   戸 藤戸の合戦で戦功を納めた佐々木盛綱のお話
  屋   島 沢山の話しが残る屋島の合戦のお話し
  碇   潜 碇を担いで入水した平知盛と同じく入水した清盛の妻二位尼の最期の話

    「敦 盛」
一の谷で熊谷直実に討たれた16歳の若き武将・平敦盛のお話
源氏の武将熊谷直実は、一の谷の合戦で平敦盛を手にかけまた。16歳の少年を討ってしまい、戦、世の中に無常を感じ出家して蓮生と名乗りました。そして敦盛を弔う為に一の谷に下ります。すると、どこからともなく笛の音が聞こえ、草刈男達がやってきます。蓮生が今の笛はあなた方が吹かれたのですかと聞くとその中の一人の男が「そうです」と答えます。蓮生が男と話をしていると、他の男達は帰っていきます。蓮生は男に「なぜあなたは帰らないのですか」と聞きます。すると草刈男は「自分は敦盛のゆかりの者です。十念を授けて欲しいのです」と、言いそして自分が敦盛の霊であることをほのめかし消えます。蓮生が回向をしていると敦盛の霊が現れます。そして昔語をします。それは、合戦の前夜、父経盛らと今様を謡い、自分は笛を吹き遊興したこと。そして、栄華を誇った平家の没落。そして自分の最期の事。敦盛は自分の最期を思い出し、蓮生こそが自分の敵だと太刀を振りかざし蓮生にかかっていきます。しかし自分の事を弔ってくれる蓮生に感謝をし、後々の供養を頼み消え失せます。写真入り解説はこちら 普通のお能は、旅の僧が武将の霊に会います。この曲だけは、手にかけた本人が会いに行くという変わった作りをした能です。
敦盛は笛の名手「青葉(小枝)」と言う名器を賜っています。敦盛は最期までその笛を持っていました。討たれる時敦盛は最期まで名乗りませんでした。直実は討ったあとこの笛をみて敦盛と知ったのです。この笛は今も「須磨寺」にあります。
    「経 正」
一の谷で討たれた敦盛の兄、琵琶の名手でもあった平経正のお話
一の谷の合戦で討死にした但馬守平経正を哀れに思った仁和寺の僧・行慶は経正が生前手馴れていた「青山」という琵琶を仏前に供え、経正の霊を弔っていました。その夜更け、経正が現れ行慶と言葉を交わします。行慶が琵琶を弾くように勧めると経正は琵琶を手に取り弾き鳴らし昔を懐かしみます。やがて修羅の時間がやってくると、その浅ましい自分の姿を恥じ、灯火を吹き消して暗闇へと消え失せます。

「呉竹の 筧の水は かはれども なほすみあかぬ 宮の内かな」謡にも出てくる経正の歌です。
写真入り解説はこちら
経正は敦盛のお兄さん。敦盛は笛の名手に対してこちらは琵琶の名手。「青山」という名器を賜っていました。経正は都落ちの際にこの名器を戦で失えてはいけないと仁和寺に青山の琵琶を帰したのです。
   「生田敦盛」
敦盛に遺児がいたという設定のお話
法然上人が、賀茂参詣の帰りに一条下り松の辺りで2歳くらいの1人の男の子が捨てられていたので、可愛そうに思った上人は連れて帰って育てました。やがて10歳になった男の子は、自分に親がない事を嘆きます。上人は説法の後にこの事を話しすると、説法を聞きにきていた女性が「その子は自分の子です」と名乗り出ます。女は自分が母で、父は一の谷で討たれた敦盛であると言います。それを聞いた男の子は、夢でもいいから父に会いたいと賀茂神社に祈願を込めます。さて満参の日、賀茂神社に参り祈った後少し眠っていると男の子は霊夢を蒙ります。その霊夢は「父に会いたければ生田の森に行きなさい」と言うことなので男の子は早速、法然上人の弟子と共に生田森に行きます。生田に着き、日も暮れたのである庵に宿を借ります。するとその庵の中に美しい甲冑に身をまとった若武者がいました。若武者は「自分こそが敦盛の霊である」と名乗ります。男の子と敦盛は対面を果たします。そして敦盛は男の子に一の谷の合戦の話を聞かせたり、また対面の喜びの舞を舞いうのでした。しかしやがて地獄の閻王の使いがやって来、また修羅の敵も現れ、地獄の修羅道の苦患を受けます。そして夜明けと共に、回向を頼みながら再び消えてしまうのでした。 忠度は薩摩守、経正は但馬守など冠がありますが敦盛はまだ16歳であるので官位がないので「無官太夫」と言われています。
    「忠 度」
箙に短冊を付け戦に行った歌人平忠度のお話
藤原俊成の家人が出家して、西国行脚の途中須磨浦にやってきます。するとそこに薪に花を折り添えて負うた老人が現れます。老人は、桜の木陰の古墳に花を手向けます。僧は、老人に一夜の宿を頼みます。すると老人は「この桜の木陰ほどよいお宿はないでしょう」と言います。そして「この古墳は平忠度の古墳ですからよく弔ってください」と頼みます。僧が懇ろに弔うと老人はとても喜ぶので不思議に思い尋ねると「実はお僧に弔って頂こうと思ってやってきたのです」と言い、この木陰に寝て夢の告げを待ちなさいと言って消え失せます。僧が木陰で寝ていると夢に忠度が現れます。忠度は自分の歌が「読み人知らず」になっているのがこの世への妄執なので、ぜひ藤原定家に言って作者の名をつけてくださいと僧に頼みます。そして都落ちの時途中で引き返し俊成宅を訪ねた事、一の谷で岡部六弥太忠澄に討たれた事を語り忠度は消え失せます。箙につけていた短冊の歌は「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」です。六弥太はこの短冊を見つけ作者名が忠度と書いてあったので、自分が討った人が忠度であると知ったのです。忠度の最期は壮絶です。六弥太に右手を切り落とされ、これまでと思った忠度は六弥他を左手で投げ、西に向かって「光明遍照・十方世界、念仏衆生・摂取不捨」と唱え、最期に六弥太に首を刎ねられます。 忠度は藤原俊成を訪ね、そして勅撰和歌集に自分の歌を一首なりとも載せて欲しいと歌の巻物を預けます。そして千載和歌集に「さざ浪や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」と言う歌が載りました。俊成宅は現在の烏丸五条辺。俊成町と言う地名になっています。
平忠度は薩摩守です。昔、無賃乗車の事を「さつまのかみ」と言う言い方をしました。それは「忠度=ただ乗り」とかけているわけですね。酷い言われ方ですが、昔はそれだけ忠度がメジャーな人であったとも言えます。
   「俊成忠度」
歌人忠度のこの世に残した唯一の心残りとは
一の谷で平忠度を討った岡部六弥太は、忠度の尻籠に付いていた短冊を持って、忠度の歌の師、五条三位藤原俊成を訪ねます。俊成が短冊を見ると「旅宿の花」と言う題で「行きくれて 木の下かげを 宿とせば 花やこよひの 主ならまし」と書かれていました。俊成は文武二道に秀でた忠度を惜しみ後生善所を祈ります。すると忠度の霊が現れて「故郷の花」の題で詠んだ「さざ浪や 志賀の都はあれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」の歌を俊成が千載集に載せるにあたり読み人知らずとした事への恨みをのべます。俊成は忠度が朝敵であるが為仕方がなかった事を伝えまた「この歌がある限り後世に必ず名は残るでしょう」と慰めます。そして俊成と忠度は互いに歌の事を語り合います。すると突然忠度の様子が変わり地獄の修羅道の苦患を現しましたが、まもなく梵天が「さざ浪や」の歌に感じ、剣の責めを赦し、そして忠度の霊は夜明けと共に消え去ります。 シテは出てきてまず第一声が「前途程通し。思いを雁山の夕べの雲に馳す」と謡います。これは、忠度が都落ちの時、俊成との別れ際に高らかに詠った漢詩です。
兵庫県の明石市に「忠度塚」と言う忠度を祭った祠があり忠度町と言う町名もます。
    「知 章」
父・知盛を助けに入り討ち死にした知章のお話
西国の僧が都へ上る途中須磨浦にくると、物故平知章と書いた卒都婆がありました。僧は回向をしていると1人の男がやってきましたので、僧は知章の事を尋ねてみました。男は「知章は新中納言知盛の子で、この一の谷で討ち死にした人です。今日がその命日なので、所縁の人がその卒都婆を立てたのです」と答えます。そこで僧が懇ろに弔います。そして次に知盛の事を尋ねます。男は語ります。「知盛は海に浮かぶ御座舟に乗り助かったのです。知盛は井上黒と言う屈強の名馬に乗っていました。馬は船までの20町を易々と泳ぎ主君を助けた名馬なんです。しかし船は人で一杯で、馬を乗せられず、知盛は泣く泣く馬を岸へ帰したのです」と語ります。そして男は自分もその一門の人間ですと言い捨てて海の方へ消えて行きます。僧が供養をしていると、甲冑姿の知章の霊が現れます。そして自分の最期を語ります。「味方の弓の名手・堅物太郎が放った矢が敵の旗さしの首を射抜きました。するとその主人と思う武者が父・知盛目掛けて討ちかかってきます。知章は父と敵の間に割って入り、敵の首を討ちとります。そして知章が立ち上がった所を今度は知章が敵の童に首を討たれてしまったのです」そう語りまた後々の回向を僧に頼み知章は消え失せます。 知章の首を刎ねた敵の童は堅物太郎に討たれますが、その堅物太郎もまた違う敵に討たれます。知盛の馬は、汀にて船に向かって主との別れを惜しむ様に高嘶きします。畜類にも心があるのだと人々は涙にくれたそうです。また、子供と家臣を見捨てる形になった知盛は「子が親を助けたのに、親が子を助けない事があるものか。自分の命が惜しいと言う事を思い知らされた」と涙を流しました。
    「 箙 」
箙に白梅を差し笠印として戦った梶原源太景季のお話
都見物をしようと西国の僧が都へ上ってきます。その途中攝津国生田川の辺りで、満開の梅の木を見つけます。そして通りかかった男に木の事を尋ねます。男は「昔、一の谷の合戦の時梶原源太景季がこの梅の枝を折って、箙に挿して笠印として戦い名を上げたのです。ですから後世の人がこの梅を『箙の梅』と言ってるのです」と語ります。そして一の谷の合戦の事を物語りまた、自分こそがその源太景季の幽霊だと明かし消え去ります。夜半、僧が梅の木陰で寝ていると凛々しい若武者姿の梶原源太景季の幽霊が箙に白梅を挿し現れます。そして地獄の苦しみや、生田川での合戦の有様を語り、僧に回向を頼んで消え失せるのでした。
生田川の戦話は「梶原の二度駆け」と言う平家物語のお話です。その話とは、景季と離れ離れになった景時はもしや討たれたのかと、景季探しに敵陣に切り込みます。すると馬は撃ち殺されて、兜も剥ぎ取られ、ざんばら髪になった景季が、5人の武者に取り篭められて、崖を背に、太刀を抜き放って、ここを最後と戦っているではありませんか。景季は討たれていない」と知って、喜び勇んだ景時は馬から飛び降り、景季の元に駆け付けますと。そして「同じ死ぬるとも、敵に後ろ見するな」と、たちまち3人を切り捨て、2人に傷を負わせました。景時は 「武者は、駆けるも・引くも、潮時が肝心ぞ」と言い、景季を抱いて敵陣から出てきた、と言う中々格好いいお話です。
景季の父・梶原景時は事あるごとに義経と対立します。判官びいきからか歴史上とっても悪者になっている人です。しかし頼朝の信頼は厚かったでしょう。景時は元々は平家の武者でした。ですが石橋山の合戦で平家に破れ洞窟に隠れている頼朝を発見し密かに逃がします。その後頼朝に仕える事になります。景季は、義経の死後の奥州藤原氏征伐の遠征にも参加します。そんな武勇の梶原親子も、頼朝の死後、北条氏によって滅ぼされてしまいます。
    「千 手」
一の谷で生け捕りにされ鎌倉に送られた重衡と千手の前との淡く切ない恋のお話
一の谷で生け捕りにされた平重衡は鎌倉へ送られ狩野介宗茂に預けられます。源頼朝は重衡の心を慰めようと千手の前と言う女性を遣わしていました。とある雨の日、宗茂が重衡に酒を勧めようと思っていると、そこへ千手が琵琶と琴を持ってやってきます。重衡は千手に取り次いでもらって頼朝に出家をしたいと望み出ていました。重衡は千手に願いはどうなったか聞きます。結果は「出家は許さず」との事。重衡も父・清盛の命令とはいえ、大仏を焼き払い多くの人の命を奪ったその報いであろうと歎きます。千手は、重衡を慰めようと酒を勧め、舞を舞い、謡います。重衡のいつしか興に乗って、琵琶を弾こうとします。千手も琵琶にあわせ琴を弾きます。そんな楽しい夜もいつしか明け重衡も酒宴を止めます。するとそこへ無情にも重衡を京の処刑場へ送る旨の勅命が下ります。2人は無理やり引き離される様に別れ、千手は泣きながら重衡を見送ります。 重衡は文治4年4月22日に処刑されます。千手は重衡の処刑を聞き気を失います。そして故郷に帰るものの三日後の4月25日に亡くなってしまいます。重衡に対する恋慕の思いが千手を亡くならせたのだろうと人々は噂をしたそうです。
    「通 盛」
3年越しの恋を実らせ、とっても愛妻家であった三位卿通盛の話
阿波の鳴門でひと夏を過ごす僧がいました。僧が、平家一門の跡を弔おうと経を読んでいると、経を聞こうと沖から漁翁と女がやってきます。僧は、翁に篝火を焚かせてその火で経を読んで聞かせます。その後僧はこの浦で亡くなった平家一門の話しを聞かせて欲しいと頼みます。老人と女は、沢山の人が討たれたり、海に沈んだりとしましたが中でも小宰相局の最期はとっても悲しい話なんです、と小宰相を語ります。夫・通盛亡き後自分は誰を頼みに生きていけばいいのかと嘆き悲しむ小宰相。小宰相はもう生きていてはと入水をするのですと語ったかと思うと女が海に消え、老人もまた海の底へと消えてしまいます。土地の人から通盛の話を聞いた僧は、方便品を読誦し、通盛の跡を弔います。すると波間より、通盛と小宰相が現れ最期の時の話しをします。合戦を明日に控え通盛は、身重の小宰相に別れを告げるため夜に忍んで陣に帰ります。小宰相に通盛は、自分がもし討たれたら都に帰って自分の跡を弔って欲しいと頼み、二人は酒を交わします。そして月明かりの下、2人は語り合います。するとそこへ、通盛の弟・教経が「通盛はどこへ行ったのだ。なぜ来るのが遅いのだ」と大声で叫んでいます。通盛は、小宰相に別れを告げ後ろ髪引かれる思いで一の谷の戦に向かいます。通盛は、経正が討たれ、また忠度も岡部六弥太に討たれたと聞き、自分も名のある侍であるからと敵をまちます。すると木村源五重章が通盛目掛けてやってきます。通盛は見事に討ち取りますが自らもまた討たれて亡くなってしまいます。通盛はそう語り僧に跡の弔いを頼み消え失せます。 通盛は、教盛の嫡男です。平家一の荒武者・弟の教経と比べ、大人しく、目立たない存在でした。しかし、宮中一番美人小宰相と、3年にも及ぶ恋愛を成就させた話は、都では知らない人がいないい程の優男です。 身重の妻を案じて、陣中に連れ込み、弟教経に、その軟弱さを、こっぴどく叱責され、ました。本当にとっても愛妻家でした。海より身を投げた小宰相の身は一度舟に引き上げられ、通盛の遺品と共に再び海に沈められました。小宰相19歳という短い人生でした。
    「藤 戸」
藤戸の合戦で戦功を納めた佐々木盛綱のお話
佐々木三郎盛綱は、藤戸の合戦で戦功を挙げ褒美に備前の児島を賜っていました。その盛綱が児島に入部し、土地の人々に「訴訟があるなら申し出よ」と触れをだします。するとそこへ老女がやってきて「何故、自分の子を殺したのか」と泣きながら盛綱に詰め寄ります。盛綱は戦功を挙げる為、その地の猟師に馬で海を渡れる浅瀬の事を聞きだし、その浅瀬を渡って戦功を挙げたのでした。盛綱は他人に喋られては困るからと、その時にその漁師を殺し海に沈めたのでした。そうです。詰め寄る老女はその漁師の母だったのです。盛綱は、漁師の母にその時の有様を語ります。母は泣き、自分も同じように殺してくれと盛綱に詰め寄りまた、わが子を帰してくれと泣き詰め寄ります。盛綱は母を慰め家に帰らせます。その後、漁師の後を弔うべく供養の法要をしていると、漁師の霊が現れ殺された時の事を語り、恨みの為に悪霊となって呪うつもりだったが思いの他の弔いを受けて成仏出来たと話、消えうせるのでした。 漁師が沈められた所の岩を藤戸石と言います。この藤戸石は現在京都・醍醐寺の三宝院のの庭にあります。能好きの義満が藤戸を見た後京都に運ばせたから京都にある、と言う話が残っています。最終的にはこれも能好きの秀吉が自分の元に置いたのですね。
    「屋 島」
沢山の話しが残る屋島の合戦のお話し
西国行脚の僧が、讃岐国屋島の浦へ漁翁に一夜の宿を借ります。僧は漁翁に屋島の合戦の話を聞きたいと望みます。漁翁は話して聞かせます。悪七兵衛景清が三保谷四郎の兜のを掴み引きちぎった話し。佐藤継信が能登守教経の矢にあたり亡くなった話しなどを話します。僧は漁翁の話しがあまりにも詳しいので不審に思い、名を尋ねます。すると漁翁は自分が義経の霊である事をほのめかして消えうせます。
夜になり僧の夢の中に甲冑姿の義経が現れます。そして屋島の合戦の事を話します。平家は船、源氏は陸にて馬を並べ対してました。波間にいた義経は、弓を海に落としてしまいます。弓は波に揺られ敵の船の方に流されて行きます。義経は弓を取られまいと馬を船に近づけますが、敵も熊手などで襲いかかります。しかし義経は熊手を切り払って終に弓を取り返し渚へと戻ったのでした。渚に戻った義経に義経の老臣・増尾十郎兼房が「なんて事をするのですか。たとえ千金をのべた弓であっても、御命には代えられないではないですか」と涙ながらに話します。義経は言います「いや弓が惜しかったのではない」のだと。。それは『自分の弓が叔父の為朝のような立派な弓であればいいが、この様な弓を敵に取られ「義経はこんな弓を使っている。なんて小兵な奴なんだ!」と罵られるのは無念である。もし弓を取りに行って討たれたとしたらそれは義経の運の極めだと思う。だからわざと拾ったのだよ』と。その話しを聞いた皆は感動し涙を流したのです。
その義経も今は地獄の修羅道に落ち毎日戦わなければならないと、その有様を現しやがて夜明けと共に消えうせるのでした。
「屋島」の能に那須与一の話しがありません。しかし間狂言の替えで「那須の語」というのがあります。狂言が与一の話しを身振り手振りをくわえて語りをします。能の演出にも「弓流し」や「素働」というのがあります。普通では謡だけの弓流しの話しが、実際に舞台を動き見せます。弓に見立てた扇を舞台に落とし、それをとりに行く様を見せます。「素働」はその間に波に流される様を見せるもので流れ足を使い、舞台を動きまわります。そして最後に「されども熊手を切り払い。終に弓を取り返し」と扇を取って元の座に帰るのです。
この「弓流し」と「素働」を併せて「大事」と言います。その名の通り高度な技が要求される演出なのです。
  「碇 潜」舟出ノ習
碇を担いで入水した平知盛と同じく入水した清盛の妻二位尼の最期の話
平家所縁の僧が、平家一門の跡を弔うために壇ノ浦へとやってきます。そこへ漁翁がやってきたので、舟にのせてもらうのにお経を読んで舟賃とし、舟に乗せてもらいます。壇の浦に突いた僧は、漁翁に壇ノ浦の合戦の話しを聞きます。すると翁は、能登守教経の最期の事を話します。義経を追い詰めたにもかかわらず身軽な義経は次々舟に乗り移っていき、教経は追う事が出来ず怒りながら長刀を投げ捨て、後を見送るしかなかったのです。そして教経はもうこれまでと、そこにいた源氏の安芸太郎次郎兄弟を両脇に抱え「死出の共をせい」と海に飛び入ったのです。。老人はそう語ると是非平家一門の跡を弔ってくださいと僧に頼み消え失せます。
僧が、弔っているとそこに大きな船が現れます。舟には、二位尼・大納言局・そして平知盛が乗っています。二位尼は、平家一門の最期を語ります。また知盛は、多くの敵と戦ったがもう一門もこれまでと、鎧を重ね、碇を兜の上に担いで海に飛び込んだ有様を見せ、消え失せます。
「碇潜」と書いて「いかりかづき」と読みます。普通の能では舟と二位尼は出てきません。「舟出ノ習」と言う特殊演出になると大舟の作物と二位尼・大納言局が現れ一門の最期を語ります。ですから普通は、舟も出ず、一門の話もなく、知盛の最期の話しだけがあるのです。

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