「義 経」 の ペ ー ジA
義経のページAの内容・木曾義仲の登場〜木曾義仲の没落まで
倶 利 伽 羅 落 乱曲「太刀堀」の1部分の謡。巴ともう一人義仲に使えた女武者・葵御前のお話
  実    盛 老武者実盛が白髪を墨で染め、最後の戦に望んだお話し
  兼    平 義仲の乳兄弟。巴御前のお兄さん。最後に壮絶な死を遂げる今井兼平のお話
     巴 今井兼平の妹。愛する義仲を最期を共に出来なかった巴御前の悲しいお話
  現 在 巴 金剛流のみにある曲
  木    曾 源義仲が、勝利祈願の為、埴生八幡宮に願書を奉納したお話
   「木 曾」
源義仲が、勝利祈願の為、埴生八幡宮に願書を奉納したお話
木曾義仲は5万騎を従えて、平家の10万騎と相対していました。義仲は倶利伽羅峠で一気にかたをつけようとその中の1万騎を従えて埴生という所に陣を張ります。その陣の北側に朱い玉垣の社が見えたので義仲は家来の池田次郎に「あれは何か」と問います。池田は「あれこそ埴生八幡宮です」と答え、また「ここもその御領地であります」と答えます。たまたま陣を張った場所が八幡の御領地であることはなんと吉兆な事だと義仲は喜びます。そして勝利祈願の願書を納めようと思い、家来・覚明に書かせます。覚明は早速に書き読み上げ、義仲の矢と共に埴生八幡宮に奉納します。そこへ、土地の人々が軍の門出を祝って酒肴を持ってきます。義仲は喜び、酒宴を開き、覚明に舞を舞わせます。すると埴生八幡宮から多くの山鳩が翼を並べて飛んできて、味方の旗に飛び翔ってきます。これこそ、神が願書を納受してくださったのだと、大喜びし味方の士気は一気に上がりました。そして、義仲軍は倶利伽羅峠にて平家の大軍を打ち破りました。 この曲は観世流にしかありません。シテは「願書」を舞台の上で高らかに謡います。「願書」は安宅「勧進帳」と正尊「起請文」と共に三読物と呼ばれ大変な難曲です。今は、覚明がシテで覚明が「願書」を読み上げますが、古曲ではシテが「義仲」で義仲が願書を読み上げることになっています。黒川能では、義仲がシテで義仲が願書を読み上げています。義仲が英雄の頃の曲ですね。他の義仲関係の曲は義仲の最後ばかりです。
 「倶利伽羅落」
乱曲「太刀堀」の1部分の謡
これは完曲「太刀堀」の1部分です。
越中に住む男が礪波山で畑を拓こうと耕していました。すると耕す土の中からなんとも見事な太刀が出てきました。男がその太刀を家の宝にしようとした所、男の妻に葵御前の霊が乗り移って、義仲が倶利伽羅峠で平家軍を退けた時の話をするのでした。
昔「太刀堀」と言う曲がありました。現在は廃曲となりましたが、その謡の1部分のみ残されています。そういう曲目がたくさんあり、それを集めたのを「乱曲」と言います。この「倶利伽羅落」も「太刀堀」が廃曲になりその1部分の謡のみが「倶利伽羅落」として残されました
   「実 盛」
老武者実盛が白髪を墨で染め、最後の戦に望んだお話し
遊行上人が加賀国篠原で説法をしていると毎日聴聞に老人がやって来ます。不思議な事にこの老人は上人にだけ見えて、他人からは見えません。上人は老人にその名を尋ねます。老人は、人を払って下されば名乗りましょうと言うので上人は人払いをします。すると老人は自分が斎藤実盛の幽霊であることを明かします。そしてもう200年程経ちますが未だこの地に執心が残って成仏できないと語った後、篠原の池のほとりへと消えます。夜もすがら上人が回向をしていると実盛の幽霊が戦場の姿で現れます。そして念仏往生の教を受けた事を喜びます。さらに懺悔の物語をしましょうと篠原の戦のことを語ります。義仲軍の手塚太郎光盛に討たれた事を語ります。手塚が、錦の直垂を着ているのに家来が居ない。話し言葉は坂東(関東)なまり。名乗れといっても名乗らない。仕方なく手塚は首を討ちとります。義仲は首を見て実盛に違いないと思いますが、すでに70歳超えている実盛。鬢も鬚も白いはずなのに黒いことに不審に思い、実盛を知っている樋口次郎兼光を呼びます。樋口は一目見て涙を流し、実盛が戦のときは鬢鬚を墨で染めて若い姿で死のうといっていたことを述べ、近くの池で首を洗いました。すると墨が落ちてもとの白髪になりました。そして実盛の霊は、回向をたのんで消えてゆきます。 実盛は、この戦のあった越前出身の人でした。「故郷に錦を飾る」と言う言葉がありますよね。実盛もそれを考え、おそらく最後の戦になるだろうと、宗盛に頼み本来大将格が着る錦の直垂を着る事を許してもらい、故郷に錦を飾ったのです。
   「兼 平」
義仲の乳兄弟。巴御前のお兄さん。最後に壮絶な死を遂げる今井兼平のお話。
木曾の山家に住む僧が、江州粟津で亡くなった木曾義仲を弔おうと矢橋へとやってきます。そこへ柴を積んだ船に乗った老人が現れます。僧は老人に船に乗せてほしいと頼みますが、老人は柴を運ぶ船であって渡し舟ではないからと断りますが、出家の僧であるからとどうぞ船に乗ってくださいと勧めます。船に乗った僧は琵琶湖からみえる比叡山などの名所を老人に尋ね色々教えてもらう内に船はいつの間にか対岸の粟津の森に着いていました。老人は棹を捨て何処かへと消えてしまいました。夜、僧が、義仲や兼平の霊を弔っていると、一人の勇ましい武者が僧の前に現れます。そして自分こそ、今井四郎兼平の霊と名乗り、先程ここへ僧をつれて来た老人こそ自分の化身である事を明かし、今度は自分を御法の船で彼岸に渡して欲しいと僧に頼みます。兼平は主君義仲の最後、そして自分の最後の事を物語ります。『兼平と一所にて討死にを望む義仲。兼平は義仲に「人の手に討たれるよりは御自害を」と言います。背後の追っ手と奮戦する兼平。義仲は松原へとさしかかった時、薄氷の張った深田にはまってしまう。義仲が兼平を気遣って振り向いた瞬間義仲の兜を1本の矢が射抜き義仲は死んでしまいました。』兼平はそう語ると、ここがその義仲の討たれた所なので、まず主君の後を弔って下さいと頼みます。さらに自分の最後を語ります。『義仲が討たれたと聞き、もう最後の広言と「これこそ木曾殿の身内の今井四郎兼平」だと大声で名乗り、大勢の敵を粟津の汀まで追い詰めて戦ったが、「自害の手本をみせてやる!」と叫び太刀を口に銜え真っ逆さまに馬から落ちて死んだのです』 この最後の時、義仲はまず巴を国へ帰します。大津に「義仲寺」と言うお寺があり、義仲のお墓はそこにあります。江戸時代の俳人・松尾芭蕉は自分の死後「木曾殿の隣に葬れ」と遺言を残し、その遺言通り芭蕉の墓もこの「義仲寺」にあります。
    「 巴 」
今井兼平の妹。愛する義仲を最期を共に出来なかった巴御前の悲しいお話。
木曾の山家に住む僧が都へ上る途中、江州粟津の原で一休みをしていました。そこへ1人の女性が現れ神前で涙を流すので僧は不審に思いその訳を尋ねます。女性は、昔※行教和尚が宇佐八幡に詣でて涙を流した故事を語ります。そして僧に出身地を聞きます。僧が木曾の出身と知ると「ここには僧と同郷の木曾義仲が祀られているのです。どうか義仲の霊を慰めて下さい」と言い、自分も亡者で仮にここに現れたと告げ夕暮れの草陰に消えていきました。僧が回向をしながら夜を過ごしていると先程の女性が甲冑姿で現れます。自分は巴という女武者で女であるが故に義仲と最期を共する事を許されなかった恨みが執心となっていると言います。そしてここの合戦で自分が奮戦した有様、義仲の最期を物語ます。女であるから最期の共を許されず、義仲の形見を持って1人木曾に落ち延びた心残り。その執心を晴らしてくださいと僧に回向を頼むのでした。
この能では、義仲は自害したことになっています。女心の能であるからでしょうか。写真つきの解説はこちら
巴はただの女武者ではなく、ちゃんとした一軍の将でした。粟津の合戦以降、巴の行方はいまいちはっきり解っていません。和田義盛に嫁ぎ、朝比奈三郎義秀を生んだとも、尼となり越後に住んだとも。91歳で亡くなったと言われています。義仲寺によく来る尼がいてそれが巴とも言われています。
※行教和尚:大和国の僧で宇佐八幡に神託を受け、京都男山に石清水八幡宮を勧請しました。
   「現在巴」
金剛流のみにある曲
義仲は巴に別れを告げます。しかし巴は「命令であってもそれは受けられない」と言います。義仲は「義仲は最期まで女武者を連れていたと言われては無念である。だから急いでどこかへ落ち行け」と言います。不満や名残がありつつも二人は泣く泣く別れます。さてその後、敵である恩田師重 が巴に攻めかかってきます。巴は応戦し、秘術を尽くしついには恩田師重 の首を討ち取ります。そして巴は義仲との約束の通り何処かへと落ちて行くのでした。 「巴」は幽霊の巴の話ですが「現在巴」はその名の通り現在のお話。ですから皆生きているお話です。シテが巴・ツレが義仲・ワキが恩田師重 という配役です。黒川能に「今生巴」と言う類曲があります。

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