「義 経」 の ペ ー ジ@
義経のページ@の内容・牛若丸の鞍馬寺時代の話し〜源頼朝の石橋山での敗北まで
  朝    長 平治の乱後、落ち延びる義朝主従。深手を負った次男・朝長のお話。
 鞍 馬 天 狗 牛若丸が鞍馬の天狗に兵法を伝授されるお話
 笛  の  巻 一向に勉強をしない牛若に母・常盤御前は弘法大師伝来の笛を渡し諌めるお話
 橋  弁  慶 五条大橋での義経と弁慶の出会いのお話
 烏帽子折(前) 牛若丸が元服して九郎義経となるお話
烏帽子折(後)と熊坂 牛若と吉次一行が大盗賊熊坂長範に襲われ、牛若が熊坂を帰り撃ちにした時のお話
  俊    寛 鹿ケ谷事件で鬼界島に流された俊寛の悲劇のお話
  頼    政 宇治川の合戦で敗れた源頼政の話
    鵺  源頼政の妖怪退治のお話
 七  騎  落 石橋山で破れた頼朝が落ち延びる時の一つのお話

   「朝  長」
平治の乱後、落ち延びる義朝主従。深手を負った次男・朝長。夜、朝長の部屋から「南無阿弥陀仏」と聞こえ・・・
平治の乱で平家に敗れた、源義朝とその子朝長は都を落ちていましたが先の戦で深手を負った、源朝長はこの先自分は足手まといになると美濃国青墓で自害し果てます。
それを聞いた、朝長所縁の清涼寺の僧が美濃の青墓へ行き朝長が自害した宿に行き、そして朝長の墓所に参ります。するとそこへこの宿の長者もお参りに来ます。長者は僧に、自分の家での朝長の自害の有様を物語り、そして僧を宿へと連れて帰り懇ろにもてなします。
その夜、僧が観音懺法を行っていると朝長の霊が現れます。朝長は平治の乱の事、乱後の父や兄・弟の事を語ります。そしてここの主人はかいがいしく自分の死後まで世話をしてくれている事を喜び、深手を負ってから自害するまでの有様を物語り僧に回向を頼んで消え失せます。
朝長は都落ちの際、膝を射抜かれて歩けなくなっていました。そして落ち行くのに足手まといになるので、自ら命を絶つのです。
   「鞍馬天狗」
牛若丸が鞍馬の天狗に兵法を伝授されるお話
鞍馬山のお坊さんがお寺の稚児達を連れて、花見に出かけます。そこへ一人の山伏が乱入したので、僧は稚児達を連れて帰ってしまいます。しかし一人の稚児が残ります。紗那王こと後の義経です。紗那王は山伏に好意を示します。そして他の栄華の平家一門の稚児の中での不遇を語ります。山伏は慰めようと色んな所の桜を見せてまわります。そして鞍馬山へ戻り、実は自分が鞍馬の大天狗であることを明かし、兵法の大事を授けて平家をうたせましょうから明日また此処へ来なさいと言って山へ飛び去ります。翌日、紗那王が待っていると、大天狗が各地の天狗を引き連れてやってきて、紗那王に兵法の奥儀を伝え、こののちも守護することを約束し、また山へ飛び去ります。
稚児の一人
   「笛 の 巻」
一向に勉強をしない牛若に母・常盤御前は弘法大師伝来の笛を渡し諌めるお話。
「笛の巻」とは「橋弁慶」という曲目の小書(特殊演出)です。橋弁慶は後に書きますが五条大橋で弁慶と牛若が出会った話ですね。一般には、弁慶が五条大橋で辻斬りをしていたとあります。しかし能では逆です。辻斬りをしているのは牛若で、そいつを懲らしめてやろうと弁慶がでかけるのです。その詳しい話はまた、橋弁慶のところでしましょう。しかし実際義経は良い人であったかは疑わしいのです。で、笛の巻。これは、勉強もせず悪さばかりし、五条大橋で千人斬りをしているという牛若を母常盤がいさめる為に牛若を呼びます。常盤は涙を流して悲しみ、弘法大師伝来の笛を渡して牛若を諭します。牛若は母の仰せに従い、明日にも寺へ登って学問に励むと約束して、今宵ばかりは名残の月を眺めて来ると出かけます。と言う話です。そして名残の月を見に五条大橋へ出かけ弁慶に出会う橋弁慶の本題の話へ移ります。
   「橋 弁 慶」
五条大橋での義経と弁慶の出会いのお話
義経の運命的出会い。それは武蔵坊弁慶との出会い。京都五条大橋の話。しかし五条天神という神社であったとも。この五条大橋は現在の松原橋のことです。さて「義経記」によりますと、「弁慶洛中にて太刀取りし事」に牛若と戦って負け、「義経弁慶と君臣契約の事」に翌日清水坂で再び出会いまた負け、そして主従契約を交わしたとあります。しかし「笛の巻」でも書きましたが能では逆です。狼藉者は牛若です。事実、歴史書では義経が父義朝の供養の為千人斬の願をかけたとあります。弁慶と義経の逆転は「義経記」によるものです。さて橋弁慶では五条天神への参る弁慶に従者が五条大橋に人を切る少年がいるからおやめになった方がと言います。しかし弁慶が聞き逃げは出来ないと五条橋に出かけます。一方牛若は母の仰せの通り夜が明け鞍馬へ帰るので今宵の名残に五条橋へ出て通る人を待ちます。そこへ弁慶が通りかかり薄衣を羽織った牛若を女だと思い通り過ぎます。すると女(牛若)は弁慶の長刀を蹴り上げ戦いを挑みます。驚いた弁慶も戦いに挑みます。かくして激闘の末、牛若に打ち負かされた弁慶。互いに名乗りあって弁慶は牛若の家来になる約束をします。
  「烏帽子折(前)」
牛若丸が元服して九郎義経となるお話
三条の吉次が弟の吉六を連れて奥州へ下ろうとします。そこへ牛若が来て同行を求めます。そして吉次と同行の牛若は近江国の鏡の宿に到着します。すると牛若に都よりの追手がかかります。それを知った牛若は元服をして姿をかえようとし烏帽子屋へと行きます。牛若は亭主に左折の烏帽子を作って欲しいと頼みます。亭主は、今は平家の世の中。源氏の左折とはいかなことかと尋ねます。牛若はただ左折にて作ってくれとだけ頼みます。亭主は左折烏帽子に就いての嘉例を語り、程なく烏帽子をおりあげて牛若に渡します。牛若は、金の代わりに刀を置いて立ち去ります。亭主の妻がその刀を見て泣き出します。妻は「自分は鎌田正清*の妹で、この刀には見覚えがある。牛若様が生まれた時に守り刀にと義朝様がお渡しになられたものだ」と言います。驚いた亭主は妻と共に刀を帰すべく牛若を追いかけ刀を帰し、奥州へと下る牛若を見送ります。 *鎌田正清:保元の乱で父・通清は源為朝に正清は源義朝につき親子で戦います。平治の乱では、義朝の息子義平(頼朝、義経の兄)の元で平重盛を敗退させたが、戦は不利になり、義朝と共に東国に落ちる。このとき妻の父、長田庄司を頼りますが長田親子の計略にはまり、義朝は浴室で討たれ、正清も庄司の息子に殺された。
「烏帽子折(後)と熊坂の話」
牛若と吉次一行が大盗賊熊坂長範に襲われ、牛若が熊坂を帰り撃ちにした時のお話
元服した義経は吉次と共に奥州への旅路を急ぎます。そして美濃国赤坂につきます。そこで一行は一夜の宿を取りましたが宿の亭主より、山賊に自分達が狙われていることを聞きます。義経はそんな奴らは退治してやるといいます。話通り、夜半に山賊が夜討ちをかけてきます。山賊の名は「熊坂長範」という大盗賊の頭でした。義経は熊坂の手下を次々に退けます。自分の剛の手下が次々討たれるのを見て、熊坂は退陣しようとします。しかし子供相手に逃げることをよしとせず、自ら義経に討ちかかっていきます。義経は、水に写る月のように捕まえられそうで捕まえられない。死闘の末、熊坂は討ち取られてしまいます。子方牛若(義経)と大人の熊坂の死闘が舞台上で繰り広げられます。子供が10人以上の大人を相手に舞台で大立ち回りをします。子方の卒業(試験)の曲とも言われています。能「熊坂」はその後の話。義経に討たれた熊坂が旅の僧に自分の回向を頼むために幽霊となって現れるお話。幽霊ですから、義経は出てきません。いかにもそこに義経がいるように熊坂が語って動いて僧に話して聞かせます。大変難しい、本当の難曲です。 熊坂は、街道一の盗賊です。石川五右衛門よりもっと昔の話です。

熊坂長範
   「俊  寛」
鹿ケ谷事件で鬼界島に流された俊寛の悲劇のお話
鹿ケ谷事件の罪で、俊寛僧都・丹波少将成経・平判官入道康頼は鬼界ヶ島へ流されていました。望郷の念にかられ、つらい流人生活。康頼・成経は神仏に都への帰還を祈る。俊寛は酒に見立てた水を桶にもち二人を迎えに行く。そして三人は酒(水)を酌み交わし、今の境遇を嘆き悲しみます。そんな頃、都では中宮徳子が出産を迎えていました。安産を願い、徳子の父・平清盛は全国に大赦の使いを出します。鬼界ヶ島にもその赦免状をもった役人がやっていきます。三人は喜びその赦免状を康頼が読みます。「鬼界ヶ島の流人のうち。丹波少将成経、平判官入道康頼二人赦免なる所なり」俊寛は自分の名前がないことに驚きます。自分で読んでみても、俊寛とも僧都とも書かれていない。もしやと思って裏返してみてもやはり書かれていない。三人とも同じ罪・同じ配所なのに何故自分だけが許されないのかと使者に詰め寄ります。しかし使者も「俊寛一人をばこの島に残し申せとの御事にて候」と冷たく言います。そして成経・康頼を促し島を発とうとします。諦め切れない俊寛は、康頼の袂にすがりつきます。しかし使者は棹で振り上げ打ちのめそうとします。とも綱を取って船を止めようとすると使者はとも綱を切って船を出してしまいます。帰る三人は都へ帰ったら何とかしてあげられるようにするから必ず帰洛出来るだろうと俊寛に声をかけます。俊寛も頼む頼むと声をかけますが、船は遠く海の彼方へと消えて行き俊寛はただ一人島に佇むのでした。 俊寛はこの一年後この島で力尽きます。鬼界ヶ島は現在の硫黄島。鹿児島県の南の方に浮かぶ島です。島には俊寛をまつるお堂などがあります。大徳寺には平康頼の供養塔があります。なぜ俊寛だけが許されなかったかは今でもなぞです。
   「頼  政」
宇治川の合戦で敗れた源頼政の話
諸国をまわっている僧が京都から奈良へと行く途中宇治の里に立ち寄ります。辺りの景色を眺めていると、一人の老人が来たので僧は名所・旧跡を尋ねます。老人は宇治の名所を教えたあと僧を平等院へと連れて行きます。そして源頼政が自害した「扇の芝」へ案内し今日がその頼政の命日であるといい、自分こそ頼政の霊であることを告げ消えうせます。僧が読経し仮寝をしていると甲冑姿の頼政の幽霊が現れます。頼政は語ります。「治承の夏、平家討伐を企てこの宇治川で陣をはった。源氏方は流れの速い宇治川は越せないだろうと宇治橋の橋板を外し平家軍がこちらに渡れないように要害を作った。源氏方は、筒井浄妙や一来法師が奮戦。しかし平家軍は田原又太郎忠綱の指示で川の中へ入り300騎の軍勢が押し寄せ味方は如何ともし難くやられてしまう。頼政はもうこれまでと、平等院の扇の芝で 埋もれ木の花咲くことも なかりしに 身のなる果ては あわれなりけりと一首残して自害をした」と語り僧に回向を頼み扇の芝の蔭へ消え失せるのでした。 扇の芝は現在も平等院に残っています。頼政のお墓もあります。筒井浄妙と一来法師の奮戦は有名です。先陣の名乗りを上げた筒井浄妙の頭の上を「御免あれ」と一来法師が飛び越し先陣を取ったというお話。そのときの様子を再現しているのが祇園祭の「淨妙山」です。山の橋桁にも矢が刺さって戦いの激しさが見て取れます。
   「  鵺  」
源頼政の妖怪退治のお話
三熊野参詣した僧が、上洛の途中攝津国蘆屋里で一夜を明かしていると埋木のような舟に乗ったいかにもあやしい異様な姿の者がやってきます。僧がその名を尋ねると「近衛院の時代に源頼政に射殺された鵺の亡霊です」と答えます。鵺とは、昔近衛院の御寝所に夜な夜な現れた妖怪。近衛院は丑の刻になると何故かひどく怯えるのでした。東三条の森より黒雲がやってきて紫宸殿を覆うと必ず怯えます。そしてその警護の為に源頼政が召し出されます。頼政は妖しき妖怪の出現を待っています。時がたち丑の刻になると黒い雲が現れ紫宸殿を覆います。そして頼政は黒雲の中に怪しい影を見つけその妖しき姿に向って矢を放つ。矢は見事に当たり妖怪は空より落ちる。そこへ頼政の家来・猪の早太が駆け寄り散々に刺し殺したのでした。鵺の亡霊はその有様を僧に語ります。そして、回向を頼み再び舟に乗って闇夜へと消えていった旅僧が、読経していると鵺の霊が本体となって現れ再び自分の最期の様を語る。鵺は、自分は天罰で射殺されたと自分の罪を認める。鵺を退治した頼政は、恩賞に剣を賜った。そして自分はうつほ舟に押し込められて淀川に流されこの蘆屋の地に流れ着き成仏できない身となってしまった。今は冥途の闇の中にいる。そんな自分に仏の力で光をあてて欲しいと僧に回向を頼み海中へと消えていく。旅僧が、読経していると鵺の霊が本体となって現れ再び自分の最期の様を語る。鵺は、自分は天罰で射殺されたと自分の罪を認める。鵺を退治した頼政は、恩賞に剣を賜った。そして自分はうつほ舟に押し込められて淀川に流されこの蘆屋の地に流れ着き成仏できない身となってしまった。今は冥途の闇の中にいる。そんな自分に仏の力で光をあてて欲しいと僧に回向を頼み海中へと消えていく。 平安時代の妖怪退治は、土蜘蛛や大江山の酒呑童子を退治した源頼光が有名です。頼政はその頼光の子孫にあたります。

鵺の霊
   「七 騎 落」
石橋山で破れた頼朝が落ち延びる時の一つのお話
石橋山の合戦に敗れた頼朝は船で安房へと落ち延びようとします。しかしそこにいる人数が主従8騎。頼朝は思います。祖父・為義が保元の乱で敗れた時、父・義朝が平治の乱で敗れた時も共に8騎。これは源氏にとって不吉の例であるから一人船より下ろし7騎にせよと土肥実平に命じます。実平は困ります。ここに居るのは皆優れた武将達。実平はまず船の艫板に居た一番の老体・岡崎義実を選びます。しかし義実は「老体で役に立たないと思っているんだろう。下船は納得できない」と拒否します。さらに義美は「この船に命を二つ持っている者が居る。その人こそ降りるべきだ」といいます。義美は石橋山の合戦で息子・義忠を失っている。この船には、実平とその子遠平が乗っている。どちらか一人降りのが筋であろうと言うのだ。もっともだと思った実平は遠平に下船を命じます。しかし遠平とて主君に仕えて行きたい気持ちは同じ。下船はしないと言います。実平は怒り遠平を手にかけようとしますが、義美に諌められます。考えてみれば自分が下りれば済むではないかと、実平は船より下りようとします。すると遠平が下船を申し出ます。実平は「それでこそわが子。いざ土肥実平が子・遠平と名乗って討死にせよ」と遠平を下船させます。しかしいざという時は一緒に討死にしたいと考えていた実平の心には哀しみがありました。こうして、船は遠平を残し海上へとでます。暫くたって平家方の和田義盛が船で追っかけてきます。義盛は頼朝を慕ってやってきたと言います。2艘の船は陸へ着き義盛は頼朝と対面します。義盛は実平に遠平がいないのは何故かと聞きます。実平は事情があり陸に残してきたと説明します。義盛は「頼朝様に会わせて頂き、めでたいから実平殿に引き出物を」と船の底から遠平を出してきます。実平は呆れますが、子を抱きしめ嬉し泣きします。義盛は合戦で遠平を見つけ、生け捕るふりをして助けここまでつれて来た事を語ります。一同は喜びの酒宴を開き、実平は勧められて舞を舞うのでした。 七騎落はなかなか劇的な作品です。上から責められ、まわりからけしかけられ、息子を戦場に残して行かなければならない男の苦悩。最後にはわが子と対面しめでたく終わります。さながら中間管理職の苦悩とでも申しましょうか。
さて、和田義盛は梶原景時同様、平家方から源氏へ寝返った人です。和田義盛は鎌倉幕府では侍所別当となりこちらも景時と同様頼朝の重臣です。しかし頼朝の死後、両人とも北条氏に反旗を翻し両家共滅ぼされてしまいます。(梶原景時の乱・和田義盛の乱)


義経のページトップへ