歌乃中山・清閑寺
平成19年9月
「あれこそ歌乃中山清閑寺」
色々な謡曲に登場する清閑寺。京都での知名度は高くありません。
国道1号線から、東山ドライブウェイに入ってすぐの所。
見落としている人が多いでしょう。
実はここには、恋の物語があるのです。平家物語のお話。
高倉天皇に寵愛された事で小督局は平清盛の怒りを恐れ、宮中を出て
嵯峨野の奥に隠れ住んでいました。悲嘆にくれる高倉天皇天皇は、
密かに源仲国に小督を秘密裏に宮中に呼び戻すよう勅を下した。
中秋の名月の夜、嵯峨野へ箏の音を頼りに仲国は小督探しに行く。
これは、謡曲「小督」のお話。
その後、宮中に戻った小督は、恐れていた通り清盛の怒りに触れ
高倉天皇の第二皇女を出産後、この寺で清盛に強制的に出家させられたのです。
高倉天皇の嘆きは深く、「自分が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言を
残し崩御されました。葬儀は、ここ清閑寺で行われ、遺言通りご遺体もここへ葬られました。
お寺の後ろには、高倉天皇陵があり小督のお墓も傍にあります。
歌乃中山と書いてありました。昔は大きなお寺だったそうですが、応仁の乱でその大部分が消失したそうです。 本道です。ここには、菅原道真公作の
十一面千手観世音が安置されています。
要石です。ここより見える京都の景色が扇を開いた形に見えたので、この石がちょうど要の位置になるので「要石」と呼ばれます。いつの世よりか、この石に誓いを立てると、願いが叶うといわれています。 幕末、清水寺の住職・月昭上人と西郷隆盛が勤皇の謀議を行っていたのが「郭公亭・茶室」。ここにあったそうですが、腐食激しく平成3年に解体されてしまったそうです。
奥が、小督局の供養塔です。そしてその奥には、清閑寺窯の後があります。聖武天皇の時代です。それが後々、清水焼に発展し、また粟田焼そして京焼と発展していきました。 お寺の傍、高倉天皇陵です。
一代前の、六条天皇の御陵もここです。

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