忠義の父子の別れ・桜井駅跡
平成20年1月
お天気の穏やかな、平成20年のはじまり。
車を走らせて、大阪方面へ。
楠木正成親子決別の地「桜井駅跡」へいってきました。
「駅」とは大化の改新以降、幹線道路に30里ごとに設けられた
馬など旅に必要なものを備えていた施設のことです。
今で言う「道の駅」みたいなものですね。
このすぐ近くには、豊臣秀吉と明智光秀が戦った「山崎の戦」の
天王山がそびえています。
さて、楠木親子の別れとは延元元年(1336年)九州から上ってくる
足利尊氏の大軍を迎え撃つため京都を出発して兵庫に向かった楠木正成。
途中、桜井駅で11歳の正行に対し「自分は生きて帰らないつもりで
戦場に向かうので、お前は故郷の河内に帰ってに朝廷に忠誠を誓いなさい」
と諭し、河内に帰らせました。その後、父・正成は「湊川の戦」で戦死。
弟・正季と差し違え「七生滅敵(七度生まれ変わって尊氏を滅ぼす)」と
誓い合って死んだと謂われています。
また河内へ帰った正行は、数年後兵力を整え南朝の将として戦います。
そして正平3年(1348年)に北朝・高師直と四条畷で戦い戦死します。
正行も父・正成同様、弟・正時と刺し違えて死んだと謂われています。

正成は亡くなった湊川に建つ「湊川神社」の主祭神「大楠公」として
祀られています。子・正行は「小楠公」と呼ばれ、こちらも亡くなった
場所に建つ「四条畷神社」に主祭神として祀られています。
後醍醐天皇に忠義を尽くした正成は、理想の勤皇家として崇敬され、
幕末には維新志士に祀られるようになりました。

能「楠露」は、桜井駅の父子の別れの物語りです。
旧西国街道に面してたつ石碑。
石の門があり、楠木氏の菊水紋が彫られています。
「楠公父子訣別之所」の石碑。
字は乃木希典陸軍大将。
こちらの石碑は、明治天皇御製「子わかれの 松のしつくに袖ぬれて 昔をしのぶさくらゐの里」の歌が。字は、東郷平八郎元帥海軍大将 正成が旗を立てかけたという「旗立松」の残り。
楠木正成・正行父子の像
「滅私奉公」は近衛文麿公爵の書。
逆光のため反対側からアップで撮影。
楠木正成公をアップで。
お髭のたくわえたお顔が凛々しいですね。
楠木正行公。手の持つ経は戒めを書いたもの。能「楠露」では正行(子方)がこの経を披き見る場面があります。

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