裏・嵯峨野めぐり
平成19年8月
8月最後のお休み。朝起きたら、めっちゃ天気が良い!
これは、家に居てはもったいない!と自転車にまたがり近所をウロウロ。
高校時代は自転車通学だったのでこの辺り、よく走ってたんですが
ずいぶん景色が変わりました。
「いい天気だし嵐山方面へ行こう!」と思って嵐山へ行ったのですが、
あまりの観光客の多さに断念。ならば、と裏嵯峨野めぐりだ!と勝手に題し
綺麗な景色から、普段見落としがちなものまで撮ってきました。

みなさんが思う「嵯峨野の景色」ってこんな感じでは
ないでしょうか?同じ場所からの雪景色はこちらへ
こちらは、広沢池。真ん中ちょっと左の山に五山送り火の一つ「鳥居型」が見えるのがわかりますか?
嵯峨野周辺でよく見る石碑。「千代の古道」
まあ、子供のころ「右道」って読んだのはご愛嬌です。
「千代の古道」とは、広沢池にでる道のことだそうです。いろんな歌に詠まれ、能の謡にも出てきます。いまいちルートがはっきりしていないそうです。この石碑あちらこちらに建ってますが、昭和55年に京都西ロータリークラブによって建立されたものです。
また嵯峨野周辺には、こういう石碑があちらこちらにあります。そうです、このあたりには御陵が多いのです。第64代・円融天皇、第58代・光孝天皇、第55代・文徳天皇の御陵への道しるべです。
ここが、文徳天皇御陵への入り口。
宮内庁管理なので、勝手に入ることはできません。
遠くから見た、文徳天皇陵です。
このあたりは、天皇陵だけではありません。
瞳子内親王陵です。このあたりは親王や内親王の御陵も多くあります。私の高校のグラウンドの下にも一つ御陵が埋まっているそうです。いえ、埋めたわけではなく御陵の上にグラウンドがあるのです。だから、校舎よりグラウンドの方が上にあるという珍しい学校です。
御陵ばかりではありません。こういう所もあります。
世界のオムロン。立石電気。
でも御室にあるからオムロンって、関西ですなあ。
さて、これは蛇塚古墳。時代はさかのぼって7世紀古墳時代のものです。石室が剥き出しですが、元々は前方後円墳でした。誰のお墓なのかは解ってないですが、その大きさからかなりの力があったと思われます。このあたりを支配していた、渡来人秦氏のものとも・・・。ここはあまり知られてないですが、玄室の幅は奈良の石舞台古墳よりも大きく、また床面積でも全国で4番目と大変大きな古墳です。蛇塚と呼ばれる謂れは、石室内に蛇が生息していたからです。 「蛇塚古墳」を、別角度から。
もう一つ、別角度から。生えている木。後ろに見える家。古墳の大きさがお分かりいただけるかと思います。 さて、蛇塚より自転車で10分くらいの所にちいさな建物が。海生寺跡に建つ「車僧御影堂」です。能「車僧」のお話です。車僧とは、ここにあった海生寺の開祖・深山禅師のこと。いつも破れ車に乗っていることから人は「車僧」と呼んだそうです。中には、深山禅師の像と位牌が安置されているそうです。写真を撮っていると、自転車に乗った子供がスーッと走って行きました。多分この建物が何か知らないでしょうね。もっと、地元を知って欲しいなあ。

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