聲・園城寺と申して天下に三つの鐘にて候
平成20年10月
「勢東大寺・形平等院・聲園城寺と申して天下に三つの鐘にて候」
これは能「三井寺」の間狂言の言葉。
三井寺と言いますが、正式名称は園城寺。
何故、三井寺と呼ばれるようになったか?
それは下をご覧ください。

ここ三井寺は、西国三十三箇所・第十四番札所でもあります。
三井寺の山門です。 本堂である金堂です。この金堂は、豊臣秀吉の正室北政所(ねね)によって再建されまし。本尊は弥勒菩薩です。
近江八景のひとつに「三井の晩鐘」があります。三井の晩鐘とは、この三井寺の鐘のこと。「聲・園城寺」です。 三重塔です。慶長二年(1597)秀吉によって伏見城に移築された大和の比蘇寺の塔を慶長五年に家康が三井寺に寄進したもの。三重塔じたいは、室町時代のものです。
「弁慶の引摺鐘」です。昔・三井寺と延暦寺と間で起こった抗争。当時。延暦寺の僧であった弁慶が三井寺よりこの鐘を奪って比叡山へ引き摺り上げました。そして鐘を撞くと「イノー・イノー(帰りたい・帰りたい)」と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨てたとか。鐘にはその時の、傷痕や破目などが残っています。
三井寺と呼ばれるようになった由来はここ。
金堂西側にある「閼伽井屋」です。ここは霊泉が湧き出ていまして、この水が「天智・天武・持統」の三帝の御産湯に用いられたとか。ということで「御井の寺(みいのてら)」と呼ばれていました。御井寺が三井寺となったわけです。
閼伽井屋の上には左甚五郎作の龍があります。この龍は夜な夜なここを抜け出し、琵琶湖にいって悪さをするので甚五郎自ら龍の目に釘を刺したという話が残っています。 一番奥のところで水か「ポコン」って湧き出ているのが見えますか?今も、水が枯れることなく湧き出ています。

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