朝日将軍の最期の地・鳰の海(琵琶湖)粟津原
平成20年8月
木曽義仲の死後、、一人の尼僧が義仲の塚を守り草庵を建てたました。尼僧は里人にその名を問われても、ただ「私は名も無き女」と答えるのみでした。
実はその女性は、粟津原で一緒に死ぬことが許されなかった巴御前であった。

治承4年(1180年)平家追討の院宣が全国に回り、信濃国で一人の武将が挙兵しました。それが木曾(源)義仲です。義仲は、源義賢の息子。父・義賢は、保元の乱の折に甥である源義平に討たれてしまいました。残された義仲は斎藤実盛らの援助で信濃へ逃れ、中原兼遠に預けられ育ちます。義仲は、兼遠の子供「樋口兼光・今井兼平・葵御前・巴御前」らと幼少を過ごし、兼光・兼平兄弟とは最期まで共でした。さて、挙兵した義仲は連戦連勝をかさねます。勢いにのった義仲は、寿永2年(1183年)4月平維盛を総大将とする10万の平家軍と合戦。倶利伽羅峠でこれを破って、一気に上洛します。義仲の上洛に、恐れをなした平家一門は西へと逃れ(都落ち)ます。都では長年の飢饉と平家の狼藉によって荒廃していました。民衆は、平家を追い出した義仲を「朝日将軍」と呼び大歓迎します。しかし義仲は治安回復に失敗。また義仲軍のが狼藉を働くなど、都では鎌倉の頼朝に頼る動きが出てきました。そんな中、義仲は平家を追って備中水島での合戦するも大敗。朝廷も義仲を排除する動きが活発化し、やがて鎌倉より頼朝の弟・源範頼、義経が都へ迫ってきす。焦った義仲は、強引に征夷大将軍に任命させ近江で鎌倉軍を迎え撃ちます。しかし、上洛時には数万騎だった義仲軍も、水島の戦いの敗北と状況の悪化により脱落者の続出で千騎あまりに激減していました。対する鎌倉軍は、範頼軍が3万騎、義経軍2万5千騎で義仲軍を攻撃。奮戦の義仲軍も最後は数騎にまでなり琵琶湖畔の粟津原で討たれました。
その義仲の最後の地に立つのがここ「義仲寺(ぎちゅうじ)」。
名も無き尼僧が草庵を建てたのがその起源とされています。
その後室町時代に近江源氏・佐々木六角によってお寺になりました。
義仲寺の山門です。この前の道は、旧東海道。この辺りを粟津原と言い、琵琶湖に面した景勝の地だったそうですが、今は埋めたてられ琵琶湖からは少し遠ざかっています。 こちらは、本堂「朝日堂」。朝日将軍木曾義仲に由来しての名前。本尊は聖観世音菩薩・木曾義仲・義高親子の木像を厨子に納めています。
義仲公・巴御前の兄今井兼平・芭蕉翁などの位牌も安置されていあmす。
木曽義仲のお墓。享年31歳。 こちらは、巴塚。武勇優れた美女で武将として義仲公を助けた、巴御前を弔う石碑。
こちらは境内に建つ「木曽八幡社」。
八幡大菩薩は、源氏の守護。
能「木曽」は義仲が埴生八幡宮に、戦勝祈願の「願書と矢」を納め、「倶利伽羅峠」で勝ったというお話。頼朝は鎌倉の鶴岡八幡宮ですよね。
「義仲の寝覚めの山か月恋し」これは松尾芭蕉の俳句です。芭蕉はよほど愛したか、しきりにここを訪れています。芭蕉は元禄七年(1694)旅の中大阪御堂筋の知人宅で亡くなります。そして芭蕉の遺言で、義仲の側に墓が建てられました。

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